東京高等裁判所 昭和53年(ネ)3029号 判決 1980年3月26日
控訴人 松尾俊彦
右訴訟代理人弁護士 内田文喬
被控訴人 佐野光男
被控訴人 佐野ふじ
右両名訴訟代理人弁護士 瀬戸和海
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
一 控訴代理人は、「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら代理人は、控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述並びに証拠の提出、援用及び認否は、次の二以下に掲げるほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
二 控訴代理人は、要素の錯誤の主張(原判決書八丁裏八行目ないし一一丁表六行目)に付加して、次のとおり陳述した。
訴外亡佐野正は、事実は癌の既往症を持ち、癌の再発と進行の状態であったにもかかわらず、控訴人はこの点を知らされることなく、被控訴人らもこれを秘匿して三年間は稼働可能であると言っていたので、控訴人は、亡正に逸失利益の損害賠償義務ありと信じて示談したところ、同人にその稼働能力がなかったのであるから、示談行為の基礎たる事実を欠如し、その意味でも本件示談は無効である。
三 《証拠関係省略》
理由
一 当裁判所もまた、被控訴人らの本訴各請求中原判決の認容した部分を正当と判断する。その理由は、《証拠省略》中控訴人の主張に照応し原判決の事実認定に抵触する部分は、原判決挙示の各証拠に照し信用することができないと付加し、原判決中判決書一七丁表一〇行目ないし一八丁表六行目の説示を次の二のように改めるほかは、原判決理由中に説示されているとおりであるから、その記載を引用する。ただし、判決書一二丁裏五行目の三、四字目「昭和」を削り、同一三丁表九行目「記載されている」を「いう趣旨の記載のある」に改め、同所一〇行目「第三号証」の下に「、第五号証の一」を加え、同丁裏一〇行目「第五号証の一、二」を「第五号証の二」に改め、同所末行「第三、四号証」の下に「、第五号証の一」を、同一四丁表五行目「株式会社本杉製作所に」の下に「工場長として」をそれぞれ加え、同丁裏五行目「九六」を「一二六」に、同一五丁裏四行目「四月六日」を「四月五日」に、同一六丁表三行目「支払の」を「支払う」にそれぞれ改め、同所九行目「考え」の下に「、世間で言われる慰謝料額のみでもこれを上回ると思ったけれども、かかる高額は請求しない気持ちになり」を、同丁裏末行「拒絶している」の下に「(この支払拒絶の点は、当事者間に争いがない。)」を、同一七丁表二行目「損害賠償」の下に「としてはこれを超える額」をそれぞれ加える。
二 《証拠省略》を総合すれば、甲第二号証の示談書作成の前に同証中の「示談の方法」欄のただし書(その記載内容は、原判決書一三丁表三行目ないし七行目)のない乙第一四号証の示談書が押印寸前の形でできていたけれども、被控訴人光男が治療費は被控訴人らにおいて負担することのないよう確認しておきたいという趣旨で右ただし書の挿入を求めたため、結局乙第一四号証の示談書は廃案となったことを認めることができる。
右認定事実に、さきに一部加除訂正の上引用した原判決説示の当事者間に争いのない事実及び証拠によって認定した各事実、特に、本件交通事故の原因が主として控訴人の前方注視の過失にあり亡正の過失は僅少であったこと、亡正の傷害の程度及び後遣症が相当に重いものであったこと等を総合すると、被控訴人光男は、父の亡正(当時は生存中)の損害は総額でかなりの高額になるが、金額においてせめて三年間分の収入額は賠償してもらいたいという趣旨で三年間の逸失利益額を提案したにすぎないこと、ところで、これを計算すると約金七五〇万円になったが、これに対し、控訴人側からそれでも支払能力がないとして金三八〇万円に減額してほしい旨の申出があり、同被控訴人において、控訴人の支払能力のほか付添看護等における控訴人側の誠意等諸般の事情を考慮した結果、右減額申出に応じたものであること、本件訴訟に証拠として提出された各示談書のうちでは、単に総額と支払方法のみを記載した乙第三号証が当事者双方の意思に添うものであり、その余(甲第二号証、乙第四号証・第一四号証)は、社会保険事務所に提出するため記載の上で多少の操作が加えられていること、したがって、右金三八〇万円はすべての損害項目を含む性格の賠償額であり(ただし、治療費の支払を要すべきときは、控訴人側で負担する。)、またすべての事情を考慮して決定された額であり、殊に金三八〇万円にまで減額されるに至った主な理由は何としても控訴人の支払能力にあったこと、以上のとおり認定することができる。
右認定の事実関係に徴して考えるに、本件示談は、控訴人が主張するように、示談の対象を専ら三年間の逸失利益の賠償に限定し、これにつき示談が成立したものと認めることは困難というほかはない。けだし、金三八〇万円にまで減額されたのは控訴人の支払能力を理由とするものであり、決して、三年間の逸失利益ないしその賠償額の多い少ないが争われ、これを巡る示談交渉の結果右の額に落ち着いたという経緯ではなく、また、かかる経緯を認めるに足りる証拠がないからである。したがって、右の主張を前提とする控訴人の錯誤の抗弁及びこれに付加して陳述した本判決事実摘示二の主張(示談の基礎事実欠如の主張)は、いずれもこの点において既に採用することができない。これを若干敷衍するに、三年間の逸失利益というのは、示談で解決しようとした争いの対象ではなく、せめて三年間分の収入額程度は欲しいということから交渉が始まり、それが更に控訴人の支払能力を理由に金三八〇万円に減額されたものであるから、三年間の稼働能力の有無という点は、これを法律行為の要素ないしは示談の基礎たる事実とすべきではなく、それゆえ、この点の錯誤は要素の錯誤とはなり得ないし、また、三年を経ないで死亡し稼働能力を失ったことも示談の基礎たる事実の欠如をもたらすものではない。したがって、要素の錯誤等に関する控訴人の右抗弁は採用することができない。
もっとも、亡正が本件交通事故とは無関係に三年も経ないで癌で死亡したために控訴人をして合計金三八〇万円の賠償をさせるのが客観的に著しく不当であるというような事情があれば、なお本件示談契約を無効とすべき余地があるかもしれない。しかしながら、当事者の主観的事情はともかくとして、死亡の日である昭和五二年一月二四日までの亡正の逸失利益額は約金二一四万円であり(賞与二箇月分を含めて年収約二五〇万円とし、休業補償の支払のなくなった昭和五一年四月一日から計算)、これに前記傷害及びその後遺症による相当額の慰謝料を加えると、同人の過失を斟酌しても右金三八〇万円というのは、客観的には決して不当な額ではなく、したがって、この点から本件示談を無効とすることはできない。
三 以上のとおりであるから、原判決中被控訴人らの本訴各請求を前記一に説示した限度において認容し、これに仮執行宣言を付した部分は相当である。よって、民訴法三八四条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡松行雄 裁判官 賀集唱 並木茂)